高いヘディングの打点、強靭なフィジカルを使ってのドリブル突破。元コートジボワール代表でもあり、プレミアリーグで一時代を築いたディディエ・ドログバ。
ドログバの影響はサッカーだけでなく、母国のコートジボワールの内戦の終結にも大きな影響を及ぼしたことは記憶に新しいでしょう。
サッカー選手として、またコートジボワールの英雄としても知られるドログバについて見ていきたいと思います。
ディディエ・ドログバ 基本情報
名前 |
ディディエ・ドログバ |
---|---|
出身 | コートジボワール・アビジャン出身 |
生年月日 | 1978年3月11日生まれ |
コートジボワールの首都アビジャンで、裕福な家庭に生まれたドログバは5歳にして叔父のいるフランスへ移住しています。このフランスへの移住は、エリート教育を受けさせたかった父親の思惑があったようです。
元々医者などを志してほしいという父親の考えもあり、エリート教育を受けることとなったドログバ。このとき学問だけでなく、元サッカー選手だった叔父の影響もあってドログバはサッカーでも頭角を現してきました。
19歳の頃、フランスのル・マンUCでプロ契約。幼い頃から大きな注目を集める選手ではありませんでしたが、着実に実力を伸ばして世界を代表するストライカーへと成長を遂げています。
またドログバのプロデビュー当時には、黒人差別が色濃く残っていた背景がありました。
それによって絶望を感じながらも、プロとしてのキャリアを積み、絶望を感じたサッカーを通じて、コートジボワールの国民的英雄となったんです。
ディディエ・ドログバ クラブ実績
プロサッカー選手としてキャリアをスタートさせたフランスのル・マンUC。当時19歳だったドログバはその後7年間フランスのプロリーグでプレーをしています。
ギャンガン、マルセイユとリーグ・アンでの活躍が実を結び、チェルシーの監督となる予定だったモウリーニョ監督の目に留まります。
モウリーニョ監督はドログバをチェルシーに連れてくるとき、オーナーの質問に対して
「もう話さなくてもいい、黙って金を出せ」
とまで言わせました。当時のヨーロッパには有名なFWがたくさんいましたが、モウリーニョ監督はドログバはプレミアでも絶対に活躍できる、と確信を持っていたのでしょう。
モウリーニョ監督の狙い通り、ドログバはプレミアリーグでチームとともに大躍進。チェルシー在籍の8年間で、プレミアリーグの得点王に2回輝き、チームはプレミアリーグを4度制すなど、チェルシーの黄金期を支える活躍をしてくれました。
結果的にチェルシーのみならず、プレミアリーグを代表するFWと成長したドログバ。
フランスからイングランド、中国、トルコ、アメリカ、カナダのチームを渡り歩き、それぞれのチームで主力としてきっちりと結果を残たのはさすがと言うべきでしょう。
その順応性の高さは、ドログバの持ち味である強靭なフィジカルだけでは語れません。
高い戦術理解度とサッカーIQ、そしてサッカーに対する献身的な姿勢、これらを高い次元で持ち合わせていたからこそ、コンスタントに好成績を収め続けられた要因の1つでしょう。
2009-10シーズンでは、自身は得点王、チームはプレミアリーグの覇者。さらには前シーズン得点王だったニコラ・アネルカと2トップを組んで総得点103という記録を打ち立てました。
これは当時プレミアリーグでの1シーズン最多得点記録(2020年現在は17-18のマンチェスターシティがシーズン106得点を記録しています)で、とてつもない攻撃力を誇っていたといっても過言ではありません。
ディディエ・ドログバ クラブ実績 | |
---|---|
1998-99年 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | ル・マン |
出場 | 2 |
得点 | 0 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
1999-00 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | ル・マン |
出場 | 32 |
得点 | 7 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2000-01年 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | ル・マン |
出場 | 14 |
得点 | 1 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2001-02年 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | ル・マン |
出場 | 24 |
得点 | 7 |
2001-02年 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | ギャンガン |
出場 | 11 |
得点 | 3 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2002-03年 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | ギャンガン |
出場 | 39 |
得点 | 21 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2003-04年 | |
国 | フランス |
所属クラブ名 | マルセイユ |
出場 | 45 |
得点 | 33 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | リーグ・アン 年間最優秀選手賞 |
2004-05年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 41 |
得点 | 16 |
チームタイトル | プレミアリーグ フットボールリーグカップ FAコミュニティ・シールド |
個人タイトル | – |
2005-06年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 40 |
得点 | 14 |
チームタイトル | プレミアリーグ |
個人タイトル | アフリカ年間最優秀選手賞 |
2006-07年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 59 |
得点 | 33 |
チームタイトル | FAカップ フットボールリーグカップ |
個人タイトル | プレミアリーグ 得点王 オンズ・ド・ブロンズ |
2007-08年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 33 |
得点 | 15 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2008-09年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 42 |
得点 | 14 |
チームタイトル | FAカップ FAコミュニティ・シールド |
個人タイトル | – |
2009-10年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 43 |
得点 | 37 |
チームタイトル | プレミアリーグ FAカップ |
個人タイトル | プレミアリーグ 得点王 アフリカ年間最優秀選手賞 BBCアフリカ年間最優秀サッカー選手賞 |
2010-11年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 40 |
得点 | 13 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2011-12年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 35 |
得点 | 13 |
チームタイトル | UEFAチャンピオンズリーグ FAカップ |
個人タイトル | – |
2012年 | |
国 | 中国 |
所属クラブ名 | 上海申花 |
出場 | 11 |
得点 | 8 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2012-13 | |
国 | トルコ |
所属クラブ名 | ガラタサライ |
出場 | 17 |
得点 | 6 |
チームタイトル | スュペル・リグ |
個人タイトル | ゴールデンフット賞 |
2013-14年 | |
国 | トルコ |
所属クラブ名 | ガラタサライ |
出場 | 35 |
得点 | 13 |
チームタイトル | テュルキエ・クパス TFFスュペル・クパ |
個人タイトル | – |
2014-15年 | |
国 | イングランド |
所属クラブ名 | チェルシー |
出場 | 40 |
得点 | 7 |
チームタイトル | プレミアリーグ フットボールリーグカップ |
個人タイトル | – |
2015年 | |
国 | アメリカ・カナダ |
所属クラブ名 | モントリオール・インパクト |
出場 | 11 |
得点 | 11 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2016年 | |
国 | アメリカ・カナダ |
所属クラブ名 | モントリオール・インパクト |
出場 | 24 |
得点 | 11 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
2017年 | |
国 | アメリカ・カナダ |
所属クラブ名 | フェニックス・ライジング |
出場 | 13 |
得点 | 9 |
チームタイトル | |
個人タイトル | – |
2018年 | |
国 | アメリカ・カナダ |
所属クラブ名 | フェニックス・ライジング |
出場 | 9 |
得点 | 5 |
チームタイトル | – |
個人タイトル | – |
通算 | |
出場 | 673試合 |
得点 | 295得点 |
ディディエ・ドログバ 代表実績
5歳でフランスへと移住したいたドログバは、フランス代表としてもプレーするチャンスがありました。しかしドログバ自身は母国であるコートジボワール代表への道を選びます。
2002年からコートジボワール代表として戦い、2006年にはコートジボワール史上初となるワールドカップ出場を果たしました。
年 | 試合数 | 得点 | 主な試合、タイトルなど |
---|---|---|---|
2002 | 1 | 0 | アフリカネイションズカップ グループリーグ敗退 |
2003 | 7 | 4 | |
2004 | 7 | 6 | アフリカネイションズカップ 予選敗退 |
2005 | 8 | 7 | |
2006 | 14 | 8 | FIFAワールドカップ グループリーグ敗退 アフリカネイションズカップ 準優勝 |
2007 | 8 | 4 | |
2008 | 8 | 4 | アフリカネイションズカップ 4位 |
2009 | 6 | 7 | |
2010 | 11 | 4 | FIFAワールドカップ グループリーグ敗退 アフリカネイションズカップ ベスト8 |
2011 | 5 | 5 | |
2012 | 14 | 9 | アフリカネイションズカップ 準優勝 |
2013 | 9 | 4 | アフリカネイションズカップ ベスト8 |
2014 | 6 | 3 | FIFAワールドカップ グループリーグ敗退 |
通算成績 | 104 | 65 |
ドログバの活躍、そしてサッカーが内戦を止めた
コートジボワール出身のドログバ。
ドログバ率いるコートジボワール代表がFIFAワールドカップ出場を決めたとき、コートジボワールでは内戦の真っただ中。そこでロッカールームへカメラを呼び、ドログバはこう訴えました。
コートジボワールの皆さん。北部の、南部の、中部の、そして西部の皆さん。今日、全てのコートジボワールの人々が共存できることを証明しました。
私たちはこうやってひざまずき皆さんに懇願します。許し合ってください。コートジボワールほどの偉大な国がいつまでも混乱し続けるわけにはいきません。武器を置いて、選挙を実施してください。そうすれば全てが良くなります。
サッカーというスポーツが人々を歓喜の渦に巻き込み、地域を分けて内戦しているそれぞれの勢力も一つになれる、分かり合える、とカメラの前で訴えたんです。
この演説の後、本当に内戦が収まり、ドログバはコートジボワールの「英雄」として称えられることとなりました。
サッカーの成績や実力も素晴らしかったドログバですが、こうしてドログバ自身の活躍が、祖国の内戦すらも止めてしまったというエピソードです。
サッカー選手として、そしてコートジボワールの英雄として、後世に名を遺したディディエ・ドログバ。サッカーというスポーツを通じて祖国の平和を手に入れた、正にレジェンドと呼べる存在ですね。